カンヌ国際映画祭の常連監督であるアスガー・ファルハディらを輩出し、世界的に注目を集める中東のイランから衝撃的な映画が届けられた。第71回ベルリン国際映画祭金熊賞&観客賞にノミネートされた本作は、これが2度目のタッグ作となるベタシュ・サナイハ、マリヤム・モガッダムの共同監督作品である。主人公のミナは、愛する夫を1年前に冤罪で処刑されてしまった女性。女優として長いキャリアを持つモガッダムは主演を兼任し、女性差別的な法律や風習が残るイランの現状を描出。未亡人でシングルマザーでもあるミナの苦闘を通して、“女性の生きづらさ”という普遍的な共感を呼び起こすテーマを追求した。
しかも本作は、多くの観客が予想するような再生や癒やしのドラマではない。日本と同じく死刑制度が存在するイラン社会の不条理に切り込んだモガダム監督は、あらゆる観客の心を激しく揺さぶり、ショッキングな結末が待ち受ける冤罪サスペンスを完成させた。すでに国際的な評価を確立したアスガー・ファルハディ、『悪は存在せず』で第70回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したモハマド・ラスロフに続く、新たな才能の誕生を告げる一作である。なお自国ではイラン政府の検閲より正式な上映許可が下りず、3回しか上映されていない。
大切な人を理不尽に奪われてしまった時
それが神のご意志だと、運命だと言われて受け入れることなどできようか
彼女が紅を引く時の強い瞳が
涙を流しながらも決して目を逸らさないその眼差しが
ずっと頭から離れない
宇垣美里(フリーアナウンサー)
イングマール・ベルイマンの「処女の泉」を思い出した。
「神」の名の下に、罪悪感や世の理不尽さから目を逸らそうとする人々。
それは「神」に限らず、「国民感情」や「多数決」でも同じことか。
木村草太(憲法学者)
「ひと言でいい、謝って欲しかった」冤罪を晴らしても謝罪しない司法に、免田事件の免田栄さんはそう言った。誤りや不正があっても無かった事にするこの国。イランはまだマシなのか…?「裁き」の重みと「赦し」の難しさを考えた。
齊藤潤一(映画「眠る村」監督)
これは、「白い牛(冤罪で殺された夫)」をめぐるイラン人女性ミナの話。
冤罪のリスクを認めず、死刑を「やむをえない」と8割が認めてしまう日本の私達に、はたして「白い牛(生贄)」は見えるのだろうか。
坂上香(ドキュメンタリー映画監督)
死刑制度を容認する人にも、反対する側の人間にも、今までそういうことを考えてこなかった人々にも、等しく響いてくる映画だ。悲劇でありながら、悲しいと叫ぶことでは済まされない現実、それが突き刺さってくる。
瀬々敬久(映画監督)
「神」に頼りながら尊厳を潰す仕組みが悔しい。
人を社会の隅っこに追いやる力にどうやったら抗えるのか。
武田砂鉄(ライター)
未亡人になれば家も借りられず、世間から冷たい視線を浴びるイランの女性たちの厳しい現実にショックを受けた。刑務所の壁に囲まれた白い牛のイメージは、冤罪で死刑となった夫だけでなく、社会の囚われの身である女性たちでもあると思えた。そんな限られた自由のなかで、贖罪を誓った男に対して或る行動をとったミナの、決然として複雑な意思の光に息を呑む。
中村佑子(映像作家)
全ての光を失っていた主人公が、男の受難を助けようと奔走する時の輝きが感動的だった。人が救われるのは、人を助けられるときだけなのかも、と思った。宗教や文化のあつれきの中でもがきながら、やむにやまれぬ人の繋がりと赦しを丹念に描いた素晴らしいドラマだった。イランの演じ手たちの演技の確かさにも息を飲んだ。無駄や虚飾がなく、それでも観る者の心の真ん中をストンと射てくる。色々反省させられました。
西川美和(映画監督)
死刑大国イランで起きた冤罪による死刑執行。その結果として多くの人たちの人生が狂わされる。先進国では例外的な死刑存置国の日本に暮らす僕たちにとって、この事件は決して他人事ではない。ラストは思わず声が出た。そしてもう一つ。女性の映画でもある。
森達也(映画監督・作家)
理不尽な目に遭ったとき、人はどういう道に進めばいいのだろう。
「法律内のことだから」「神の思し召しだから」と納得すべきなのか?特に女性に対しては「お金をもらい、優しくされたあとは、相手を許すべきだ」という空気が流れがちだが……。
ミナは、自分の道を選んだ。
山崎ナオコーラ(作家)