※ 本文は作品の核心に迫る部分に触れております。
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ドレフュス事件、
真実と正義の闘い
高橋 愛(法政大学准教授)

ナショナリズムと反ユダヤ主義が高まる第三共和政下のフランスで起きたドレフュス事件は、社会の諸争点を噴出させ、国内を二分した歴史的大事件であった。映画は、1895年1月5日、ユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスの軍籍剥奪式で幕を開ける。陸軍士官学校の大校庭に響く「私は無実だ!」という叫びは、どこにも届かない。ドイツへ軍事機密を流したスパイ容疑で逮捕され、94年のパリ軍法会議で有罪判決を受けたドレフュスは、95年4月に仏領ギアナの悪魔島へ移送される。

その数カ月後、将来を嘱望される41歳のジョルジュ・ピカールが軍の情報局局長に就任し、翌年、ドイツ大使館から発信されたフェルディナン・ヴァルサン=エステラジー少佐宛の気送速達「プティ・ブルー※1」を押さえる。事件の真犯人を告げる証拠を上司のボワデッフル将軍とゴンス将軍に報告するが、隠蔽を目論む上層部に情報局局長を解任され、チュニジアへ配置転換となる。さらに、98年初めにはモン=ヴァレリアンで60日間、98年から99年にサンテ監獄とシェルシュ=ミディ監獄で11カ月間拘留される。

「プティ・ブルー」に限らず、ドレフュス事件で特徴的なのは、数々の書類が――実体のない書類さえ――強い力を備え、人々の運命を翻弄する点である。事件はパリのドイツ大使館付き武官シュヴァルツコッペン宛の一通の手紙を軍が押収したことに端を発するが、その「明細書」と呼ばれる手紙における砲兵隊に関する内容とドレフュスについて知られていることは、必ずしも合致しない。94年の軍法会議の判士たちが入手した「Dの奴」と称される別の手紙でも、実名は伏せられ、記された「D」というイニシャルがドレフュスの有罪の根拠となる。後年、軍の参謀本部は新たな一通にドレフュスの名を見出し、絶対的確信を得るが、この書状に至っては、96年10月にユベール=ジョゼフ・アンリ少佐が成した偽造であった。ドレフュスの有罪を証明できない軍は、偽造文書の作成も行っていたのである。96年11月10日付〈マタン〉紙に「明細書」の複写が掲載され、明かされた筆跡は真犯人エステラジーを白日の下に晒し、「アンリ偽書」も調査対象となる。逮捕されたアンリは偽造を自白し、モン=ヴァレリアンの独房で自殺する。

逆境にたえるピカールは、97年に旧友の弁護士ルイ・ルブロワへ真実を伝えていた。その真実はルブロワから上院副議長オーギュスト・シュレール=ケストネールへ託され、ドレフュスの裁判の再審へ向けた動きが生まれる。さらに、98年の軍法会議がエステラジーに無罪を言い渡すと、ドレフュスの無実を確信するエミール・ゾラが、同年1月13日付〈オーロール〉紙に共和国大統領フェリックス・フォールへ宛てた「私は告発する!」を発表する。告発は、誤審ではなく、真実を隠蔽して体制を守ろうとした軍の幹部、筆跡鑑定家やナショナリストの新聞、94年と98年の軍法会議へ向けられる。この発表で有罪判決を受け、英国へ亡命するゾラは、知識人の社会参加を促し、ドレフュス派の闘いに新たな次元をもたらした。

1899年6月に破棄院は94年の判決を破棄し、悪魔島から帰還したドレフュスは8月のレンヌ軍法会議で再び有罪を宣告された。しかし、「情状酌量」が認められ、大統領から恩赦を与えられる。1900年に上下両院が大赦法案を評決、1906年7月12日に破棄院はドレフュスへの有罪判決が「過誤、過失により」下されたとし、ついにレンヌ軍法会議の判決を無効とする。同年、再び軍籍に入ったドレフュスは少佐となり、ピカールは准将、ほどなく少将に任命され、陸軍大臣となる。

1902年に不慮の死を遂げたゾラの信念は、多くの人に受け継がれた。死の5年前、この作家は読者の学生へ向けて次の言葉を送っている。「人間らしく正義を貫くこと、それはいつの時代にあっても、あらゆる人々の責務なのです」。ドレフュス事件を考え、語り継ぐ意味は、まさにこの言葉のなかにある。

官庁名は下記書籍に沿う
ドレフュス事件-真実と伝説』(アラン・パジェス著、吉田典子・高橋愛訳、法政大学出版局、2021年)

※1 主に下水道を利用し、パリ中に張り巡らした気送管の中に便箋や葉書に記した手紙を入れ、瞬時に送るシステム。19世紀後半によく使用された。

6月3日(金)、TOHOシネマズ シャンテほか全国公開